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2017.02.24
日本文化を愛した人 ”シーボルト” -谷本ー
個人的な話になりますが、昨年の年末から今年度の年始にかけて家族でオランダへ旅行に行ってきました。この旅行が決定した時から是非訪れたいと思っていた場所がありました。それは「シーボルトハウス」です。
そこで見聞きしたものを1年生の日本史の授業で発表したのですが、今回はその一部をご紹介したいと思います。
はじめに
皆さんはシーボルトと聞いてどんなイメージを持つでしょうか。授業で生徒に聞いてみると、名前は知っているけど何をしたかは知らないという答えが大半でした。
彼は日本文化を誰よりも愛し、そして世界に日本文化を広めるために尽力した人物です。なぜそこまでして日本を世界へ広めようと思ったのでしょうか。
シーボルトが日本へ渡るまで
彼の名前はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)。1796年、南ドイツの学都ヴュルツブルク(現在のドイツ連邦共和国バイエルン州ヴュルツブルク市)に生まれました。一族は多くの大学教授をだした医学界の名門です。シーボルト自身も地元の大学へ進学し、様々な博士号を取得して卒業後に開業しましたが、彼が好きだったのはそこではなく自然科学でした。つまり未開の地を調査し、現地の文化を学ぶ事が彼の狙いだったのです。
そこで周囲の協力を得て自然科学への探究心を満たすため、オランダの貿易先(現在のインドネシア共和国ジャカルタ市)へ行くことになります。そこで彼の未知のものへの探究心と情熱が認められ、日本の長崎・出島にあるオランダ商館の医師に任命され日本へ渡ることになりました。ちなみに日本では当時鎖国政策を行っており、ドイツ人であるシーボルトは入国する事ができませんでした。しかし彼は入国が認められているオランダ人に成りすまして日本へ渡ったのです。
日本へ渡ってからのシーボルト
本来外国人は出島以外の場所へ行くことはできませんでした。しかし日本の文化にもっと触れたいと考えたシーボルトは、最新の医学を日本人に教え、無料で診療するという条件で出島を出る許可を幕府からもらいました。その後、出島外に鳴滝塾(長崎郊外)を開いて西洋医学(蘭学)教育を行い、多くの日本人に医学を教えました。一方で医学・生物・日本史・風習など多方面にわたっての日本研究を鳴滝塾の学生たちに課題として与え、オランダ語で提出させました。シーボルトはそれを使って日本文化を学んでいたともいわれています。
シーボルト事件
日本へ滞在していた間、シーボルトの日本文化への興味は増す一方でした。彼は自分の宝物を庶民の日用品と交換する事で、日本独自の物を収集していったと言われています。
5年の任期を終えたシーボルトは帰国する事になりましたが、彼が持って帰ろうとした物の中に持ち出し禁止に指定されていた日本地図が発見されました。「シーボルト事件」です。これがきっかけでシーボルトは幕府から国外永久追放を申し渡されました。当初の予定では3年後に再来日する予定でした。
オランダでのシーボルトの活動
シーボルトはオランダのライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設します。現在のシーボルトハウスです。追放処分を受けたにもかかわらず、彼は遠く離れたライデンの地で日本の研究を続けました。
その研究の結果、日本の文化をまとめた『ニッポン』や『日本植物誌』、『日本動物誌』などを出版し、ヨーロッパで幅広い注目を浴びることになりました。現在のシーボルトハウスには日本の博物館にもない非常に貴重な品々が展示されています。たくさん写真を撮ってきたので、その一部をご紹介します。
彼は日本で収集した物だけでなく、動物を剥製にして持ち帰り展示したのです。写真に写っている動物は全て江戸時代に生きていた動物なのです。ちなみに下の犬の写真はシーボルトが日本に滞在していた時に飼っていた愛犬「さくら」の剥製です。彼は日本学の教授としてドイツの大学からオファーを受けた事もありましたが、自身の手で日本文化を世に広めたいと考えていたシーボルトはその誘いを断り、研究を続けました。
その後のシーボルト
日本の伝統文化を残しつつ、文明を発展させる必要があると考えたシーボルトはその後、日本に開国してもらうため、オランダ国王に開国勧告をするよう働きかけたり、1853年にはアメリカ東インド艦隊(黒船)を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、手紙を書いたりしました。手紙にはこのようなことが書かれていました。
「ペリー提督にお伝えください。日本はアメリカの開国要求の返事を引き延ばすでしょう。そこで忍耐を切らせて威嚇すれば、彼らは命をかけて抵抗します。1年の猶予を彼らに与えれば、事態は好転します」
正面衝突をすれば江戸が火の海になる事が分かっていたため、それを避けるために手紙を書いたのではないかと考えられます。この手紙がきっかけとなったのか、ペリーは幕府の回答を1年延ばすことにしました。
1854年、日米和親条約が結ばれて日本は開国し、シーボルトの永久追放処分は解かれることとなりました。シーボルトは再び日本を訪れましたが、それはシーボルトが追放処分を受けてから既に30年が経っていました。 日本に滞在した年月は2回合わせて10年たらず。波乱万丈な人生を歩んだシーボルトでしたが、彼の功績は日本がヨーロッパをはじめとした世界に認知される大きなきっかけとなりました。「日本研究家」を自負するシーボルトは、死の直前まで日本研究に没頭し、彼の墓は日本式のものになっています。
最後に、日本の開国の知らせを聞いたシーボルトはこんな言葉を残しました。
「日本の真の開国は、日本が世界と貿易し、西洋の科学技術を導入して近代化が行われたとき、初めて成し遂げられるであろう」
それが現実になるのはシーボルトが亡くなってから数十年後の事でした。
参考文献
シーボルト 開国秘話 海を越えた愛 日本を守る その時歴史が動いた(You Tube)
社会科/英語科教員 谷本浩瑛
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